■文化は雑多なものから生まれる
石川:大学生の時のエピソードを話すと、バンドサークルにいたのですが、サークル棟を新築するという話になって、ぼろぼろの壊す予定の教室に部室が詰め込まれたんですよ。黒板はあるわ、床ははがれているわ、多分60年代に建てられたぼろぼろの部屋だったんだけど、でもそこにいるとみんなの話が盛り上がるし、いろいろなことをやろうというアイデアが出てきて、可能性がすごく出てくる。それがきれいで無機質な建物に入れられてしまうと、何かアイデアが出てこないということがあると思うんですね。社会も一緒で、「これがいい表現ですよ」ということが決められて、それだけが目の前にあると、それはたぶん発展性がなくて、いろいろ雑多なものが、猥雑なものも含めてあることによって、そこからまた新しいものが出てくるんじゃないかなと思いました。それもあって、文化は雑多なものから生まれてくるという信念があります。
永山:都市計画に則って作ったブラジリアとか筑波学園都市とかでは自殺が多いって言いますよね。「悪所」がないと生きづらくなるという。
荻野:「雑多なものの中で多様性を確保していく」「きれいにしすぎることによる抑圧」という、今まではわりとスムーズに受け入れられてきた原則論については、「しかし、そういう考え方にも限界はあるよね」「どんな表現でも放置しておけば、それでいいのか」という懸念が出ることも、最近はまた増えてきたように感じます。その辺りはどうですか。
石川:そこで重要になってくるのが憲法であると考えています。表現の自由は憲法が保障する人権の中でも特に大切にされなければならないことだと考えられています。なぜならば、表現がなければ当然知る権利もないわけですし、知らされずに物事が進んでいってしまうことは民主主義にとって危険です。実際の被害者がいないのにもかかわらず、「けしからん」という理由だけで規制をしていくと、その「けしからん」が波及していってしまうと思います。
それこそ、ロシアでは「同性愛宣伝禁止法」という法律があって、同性愛は「非伝統的な性的関係」であり,「非伝統的な性的関係」を未成年の子供たちに教えると逮捕されてしまう。私なんかは終身刑になると思うんですけど(笑)。「けしからんから規制しよう」ということはそういう法律に結びついてしまうわけです。表現の内容はなんでもかんでも構わないということではないと思いますし、他者の人権と衝突した際の調整という話もあります。エロ漫画の広告が電車の中吊りにあって、誰でも観ることができる状態になっているのはよくないと思いますが、見たい人が見るということは憲法で保障されている自由だと思います。少し話はずれますが、ゲイの知人に選挙に出るから支援してねという話をすると、かならず「モザイク撤廃」を公約にしろといわれるんですけど(笑)。それについて真面目に考えると海外は自由なわけですから。成年/未成年は分けるにしても、見せたい人が見たい人に見せるということに、何ら国家は制限を加えるべきではないという立場ではあります。
■多様なセクシュアリティの在り方
小泉しゅうすけ(以下:小泉):2000年くらいがBLとの出会いという話を聴いていて、ちょうど2004年くらいにmixiというSNSが始まって、私自身BLが好きだったので「腐男子」というコミュニティを作ったら、人が結構集まってきた。そこで「みなさんどういうセクシュアリティを持っているんですか」という話になったんですが、三分の一から半分くらいはゲイの当事者で、残りは異性愛者だけど読んでいるということでした。
石川:BLを読む男はゲイだけなのかといわれるとそうではなくて、もっと裾野が広く読まれているということですよね。
ある時友達がBL同人誌の即売会に行ったそうなんですね。彼としては女性ばかりがいるのだろうから、その中に混じって買いに行くのは嫌だなと思っていたらしいのですが、行ってみたら半分くらいは男の人で。じゃあそこにいる男性がゲイなのかというと、中身はわかりませんが、私たちが知っているゲイの人ではなくて、いわゆる「アキバ系」の人たちもいたんですね。世間で言われているゲイのイメージである「ファッションセンスが優れていておしゃれだよね」みたいな感じではない人たちだった。
もしかしたら異性愛の人もいるし当事者の人もいるかもしれないけど、彼がそのあとびっくりして私に報告してきて。「ヘテロの人がBLを愛好している!」と。そう考えると人の性的な興味・関心はすごく複雑。なのに「こうあらねばならぬ」みたいな規範みたいなものが蔓延してくると、生きづらい社会になってくる。
永山:「ヤオイ論争」というのが90年代にありましたよね。BLはゲイ差別的表現であるとして議論になりました。
石川:最近はあまりされなくなりましたが、2000年代には「当事者としてBLについてどう思いますか」という質問をよくされました。その場合、私は「フィクションとして楽しんでいただけるのであれば、私も見るときがありますし、何の問題もないと思います。ただ、美少年同士が恋愛をするという部分だけを切り取られて、それがゲイだと思われると、ゲイにはいろんな人がいるし、年齢ももちろん幅があるので困る。美少年同士の恋愛はいいけれどおじさん同士の恋愛はだめ、ということではないと理解してほしい」と答えていましたね。
永山:今はジャンルが細分化されていて、美少年系もあればガチムチ系やヤクザ系とかも。
石川:そうなんですか。増えましたよね。昔は専門店に行かないと買えなかったのが、今は大手の一般書店でもBLコーナーがあって。それはいつくらいからなんですか?
荻野:2000年くらいですと既にBLコーナーがある書店もけっこう多かったと思います。当時は青少年条例でBLが規制されることもあまりなかったです。ただ、現在は男性向けと同じような基準で規制がかかるようになったので、BLコーナーのあり方もなかなか運用が難しくはなってきました。
永山:読者は多様だし、その中には「フィクトセクシュアル」、空想を性の対象にしている人もいます。私はリアルではヘテロセクシュアルですが、ファンタジーの中ではバイセクシュアルで、サドマゾヒズムで、フェティシストなんですよ。人間の内面は複雑だと思いますし、きっちり区分できるものでもないと思います。
石川:確かに、ゲイでBLが好きで美少年が好きだから、実生活でもそういった恋人を求めて付き合っているという人は実は少数派で、永山さんがおっしゃったように、そういう複雑な存在であるということをまずもって認めないと、この社会はどんどんギスギスしていく。
永山:「バイセクシャルです」とゲイの友人に言ったら「リアルで男と寝たことないでしょ」といわれてしまいました。ここにも童貞差別が(笑)。
石川:例えば、ゲイが世間に認められたから、「永山さんのような考え方はだめ」ということにしてしまうとつまらない。マイノリティがマジョリティに認められたことによって、さらにマイノリティである人を排除していくということにならないように、我々も気をつけなければいけないなと自戒の念も込めて思いますよね。
永山:アメリカのゲイリブの中でも問題が起きていましたね。
石川:LGBTを説明するときに、「体の性」:「心の性」:「性的指向」があって、本当は身体表現の社会的な性もあるんだけど、わかりやすくこれら3つで説明するときに、「グラデーション」ですよという言い方を常にしています。心の性別がきっぱり別れるわけじゃないし、誰を好きになるのかということもグラデーションです。でもお話を聴くと、もう一つ別の軸があるんでしょうね。グラデーションを示す矢印が単一の方向を示すものではなくて、立体的かつ縦横無尽に、人それぞれある。それが尊重される社会を作っていきたいと思いますよね。
永山:フィクトセクシュアルの人はいないだろうと思っていたら、実は身近にいて驚きましたね。アセクシュアルの方も。
石川:定期的に東洋大学で200人くらいの前で授業をするんですが、アセクシュアルの話をすると、「私はそのセクシュアリティと自認しているので取り上げてくれてほっとした」と言ってくれる人もいました。また、学年が変わって同じ授業でうっかりアセクシュアルの話をしなかった時があって、そしたら「私はアセクシュアルで、恋愛感情がない。石川さんの話は心に響きませんでした」と感想を書かれました。大体200人くらいいると1人か2人くらいアセクシュアルの人はいらっしゃいますね。なおかつ感想に書いてくれない人もいるでしょうし。