2/4
1/4 ■挿絵画家の悲劇
2/4 ■挿絵画家の悲劇
3/4 ■花輪和一氏とすれ違う
4/4 ■アルバイト生活に逆戻り
■挿絵画家の悲劇
松本 昔、日教組強かったのに、少年漫画誌で戦記漫画とか戦艦の図解とか載っけてて当時文句出なかったのか?「0戦はやと」とか「紫電改のタカ」とか戦争マンガもいっぱいあったのに。だんだんうるさくなったのか?
永山 特に記憶ないですね。研究者に訊かないとわかりません。戦前の『少年倶楽部』などの記憶が残ってて「こんなもんか」と見てたんじゃないでしょうか。そんなんでお目こぼしされていた。
松本 あの頃は藤尾さん(※12)も仕事が一杯あったんだけど、だんだんと仕事が減って、さいとうプロ入って緻密な絵を描いてた。昔、異質な感じの描き込みがあって、あーゆーのを担当してて、デカイ背景とか来たら石川フミヤスさんが藤尾さんのところに持っていって。そういう役割分担。新米はベタを塗ったりとか線を引いたり、トーンを貼ったり。
永山 これは誰が描いたんですか?(原著p94)
松本 俺の絵ですよ(笑)。応募したやつが返ってきたんでコピーした。全編は見せられない(笑)。青い作品。
永山 すごい細かいじゃないですか。
松本 原画は見開きですから。それを縮小した。
永山 あー、ここがノド(見開きの境目)ですよね。
松本 何故か、このコマが三島由紀夫の葬儀(原著p95)(※13)。これはオヤジが行きたがったので身体悪かったから連れていったんです。築地本願寺。あのあたりサリン事件もあったあたり……は後の話。
永山 これ、元の写真は先生が撮ったんですか?
松本 そうですよ。それで、話戻すと、この藤尾さんがアジテーターみたいな感じだったんですね。さいとうプロは長年いた人は待遇が悪いと感じてました。「この労働のワリにこんな賃金か」つー感じで、不満がマグマのように溜まっていて。こちらは入ったばっかしですからね。
永山 まあ、安いけど、こんなもんかと。
松本 そうそう。2年くらいいるつもりで入ったんだけど、ちょうど入った時に皆さんの怒りが限界に達していた。俺が入ったのは7月だから、半年だよね。年末に大量にダーッと辞めちゃった。
永山 大変じゃないですか。
松本 その頃は会社からすると「先生と弟子」的感覚です。会社だったら普通、残業したら残業代払わなきゃなんない。あとでわかったんだけど、一律いくら、何時間やっても一律ひと月7,000円とかね、そんなふうな取り決めをして、労働基準局かなんかに届けを出していたらしい。だから、何日働いても給料が変わらないというシステムだった。ほとんど奴隷的な感じですね。
永山 藤尾さんは、もう腕の方は出来上がっていたんでしょ。余計面白くなかったんでしょうね。
松本 藤尾さんが前にいた小松崎さんのところは弟子扱いで過酷だったらしい。私生活から何から先生の面倒を見なきゃいけない。そういう徒弟制度的なところがあって、きつかった。ここもそうかと。
面白い話があってあそこで浪曲とか落語のレコードを流すのが流行っていたとき、演目で丁稚奉公の話があって
藤尾さんは昔の弟子時代を思い出すのでもうそれを聞くのが死ぬほど苦痛みたいで……。
何しろ誰かがレコードかけるとみんなそれを聞かなきゃならないわけで加山雄三ばかりかけてみんなから嫌な顔されてた人もいたし……。俺が岡林信康の「私たちの望むものは」なんてかけたら、さいとう御大、大激怒!
「何じゃこの曲は~~~!!!」と。
おれは内心大笑い……♪ べつに嫌がらせじゃないです へへへ……
永山 職人の世界ですねえ。職種にもよりますけど5年とか10年とか住み込みで技術を身に付ける。その間は低賃金で働いて、修行期間が終わっても1〜2年は安い賃金で、お礼奉公やって、やっと独立。その後は師匠の系列というか、師匠が仕事を回してくれる。
松本 弟子の時代は辛い思い出ばっかりだったらしい。
永山 今では通用しませんよ。残っているのは伝統工芸の世界くらいじゃないですかね。
松本 今、会社組織でやってる漫画家って多いの?
永山 アシスタント一杯使っているところは会社組織にしてるみたいですよ。
松本 アシスタント5〜6人のところが多いでしょ。さいとうプロは10何人もいた。
永山 佐藤秀峰さんのところは有限会社組織で、ちゃんとしてましたよ。ちゃんと調査したわけじゃないけど、昔にくらべたら今の漫画家は経営者感覚持ってる人が増えているような気がします。
松本 結局、過渡期だったんだな。雇う方も軸がブレてて。都合のいい時は「ちゃんとした会社だから」と言うけど、都合が悪くなると「授業料取らずに漫画教えてやってんだ」みたいなこと言うから、みんなカチンとくる。「頑張ってくれれば、それなりのものを払う」と言えば、みんなニコニコしたんだろうけど。
永山 まあ、俺もスタッフがいた時はロクに給料払えなかったから偉そうなこといえませんが(笑)。
松本 だめじゃないですか(笑)。さいとうプロの年末はすごかった。会社は取れるだけ仕事取ってきて、キャップがスタッフを喫茶店に呼び出して、ため息混じりに「これだけの仕事量、やれるかどうか僕にはとても自信がない。でもやれなかったら辞めてもらうしかない」みたいなこと言うのでびっくり!?「やれたらちゃんとそれなりのものを払う」……なら納得するけれど……。
永山 やれなかったらクビ?
松本 クビとは言わないけど、「着いてこられなくて脱落するならそれもやむなし」てなことを言うから、みんなますますカチンときてしまうんですね。我々はまだ入ったばかりだから。「まあ、こんなもんか」と(笑)。前からいた人はもうますます怒りまくって。終わった後、みんな喫茶店かなんかに集まってですね、ここではもうやってられないので自分たちで集ってやっていこう……みたいな流れが出来て行ったんですが……。こちらはその話はどうなんだろう? って距離を置いていて、行きがかり上いっしょに辞めるしかないけれど、一人でアルバイト生活に突入するわけですが藤尾さんを中心に集った人たちは辞めた後、うまくまとまらずにすぐに空中分解します。彼のところに数人だけ残って取ってきた仕事をやり始めるわけですがリーダーの藤尾さんはそれまでと違って責任を感じて、ちゃんと自分についてくる連中の面倒見なきゃいけないというプレッシャーがすごかったったらしい。
永山 面倒見られないですよ。
松本 しかも、それまでは一枚の絵を描いていればよかったんだけど、慣れない漫画を描かなければいけない。たとえば小池一夫作『御用牙』(作画:神田たけ志)で「座禅ころがし」という攻め手が出てくるんですが、これも藤尾さんの知識からいただいたもので実際こういうのがあったそうで、藤尾さんは知識も豊富でアイデアも一杯持っていたけれど結局マンガ家じゃなく、挿絵画家なんですよね。コマ割をしたことがない。これですよ。これまでは一つコマ描いたら完結だったのに、「えっ、まだ次のコマあんの? まだあんの? そんなに一杯描かないといけないのか!」。これが自分で描き始めるといかに大変か。それで、結局、数本ですね、描いたのは。で、ある時行ったら花輪和一さん(※14)がいた。
■脚註
※12:作中ではT・藤尾と仮名扱いになっているが、もちろん実在の人物。ここでは本編に準じて実名は伏せる。
※13:三島由紀夫(1925〜1970年)の葬儀は1971年1月24日築地本願寺で行われた。葬儀開始時、参列者は8,000人に達した。
※14:花輪和一(1947年〜)。1971年に『かんのむし』(『月刊漫画ガロ』)で漫画家デビュー。ダー松先生とすれ違ったのはちょうどその頃。