マンガ論争10取材報告:表現規制の現状を語る楽しい講演会 at 京都大学11月祭・後編

トリは白田秀彰法政大学准教授。開場前にサークルクラッシャー研究会の部屋で遭遇しました。

トリは白田秀彰法政大学准教授。開場前にサークルクラッシャー研究会の部屋で遭遇しました。

 遅くなりました。京都講演会アフターレポート後編。
 白田先生はしょっぱなから高山先生に、
「刑法学の教室では何故、ワイセツ表現を禁止するのか? をどう説明されておられますか?」
 と壇上から質問。
「文化的秩序の維持が保護法益であって、ワイセツ表現はそれを破壊するので処罰される。今はそうやって法が作られている」
 というのが高山先生の回答。
 さらに白田先生、
「文化的秩序とは?」
 と重ねて問います。これに対し、高山先生は、
「文化的秩序とは、刑法第174条・公然わいせつ罪の場合、エッチなものを一人で見るのはいいが、見せると嫌がる人はいる」
 嫌がる人に無理矢理見せるのは秩序を破壊するというロジックです。ただ、174条の場合にはこれが言えるんですが……、
「175条・わいせつ罪の方は、謎です。自明ではないから。無理矢理見せる、子供に見せるのは禁止している国が多いんですけど、見たい大人が見ることを禁止している国は減ってきている。処罰根拠がないんじゃないか」
 ということ。高山先生は175条反対論者の一人。高山先生によりますと、高山先生の先生の先生である刑法学の権威・平野龍一先生は、
「見たくない人に無理矢理見せるのは迷惑だから禁止していい。見たい人が見るのは何にも害を及ぼさない行為であるので、犯罪にしてはならない」
 というお考えだそうです。
 この質疑を導入部として白田先生の講演が始まりました。

th_Scan 3■民主主義政体という特殊
 今回の講演の内容のすべてをレポートすることはかなり無理があるので、ここではダイジェスト的にポイントポイントを紹介するにとどめます。興味がわいた人は、講演のベースとなっている白田先生の論文『性表現規制の文化史』は冬コミケで頒布予定だそうですので、お正月にでもじっくりと読み込んでいただくのがベストでしょう。もちろん「マンガ論争10」でもアフターレポートを掲載します。
 先の質問にもよく現れていると思うのですが、白田先生の探求姿勢は極めてラディカル。過激という意味ではなく、根源的に切り込んで行きます。
「統治そのものが統制であり、人々の考えを一つにまとめて行こうとする洗脳システムである。伝統、宗教、文化的秩序は統治権力を支えるサブシステムだ」
 なんて、発言だけ聞くと、「ファシズムのことか?」と思うでしょうが、考えてみれば、古今東西の政体、国家というシステムを煎じ詰めるとみんなこの結論に至ります。でないと国家が成立しない。バラバラになります。逆に言うとバラバラの国は洗脳が上手くいってない。日本はどうでしょうか?
 日本の政体は民主主義です。個人的にはまあまあ上手くいってると思う。文句は一杯あるけれど、他の国々と比べると治安が良くて、戦争に行かずにすんでるだけでもマシな方だと思います。ところが白田先生によると民主主義政体はかなり特殊なんだそうです。
 民主主義以外の政体では、なんらかの権威、あるいは権力を背負った人が、
「私が統治の方法を知っている。私のところに集まりなさい」
 というシステム。君主制、貴族制、寡頭制、独裁制ですね。共産主義によるプロレタリアート独裁も実態は一党独裁であり、党内民主主義なんて言葉もありますが、ヘゲモニーを握るのは個人とその周辺。
 これに対して民主主義は多数の人間が集まって政策を選んでいく。
「みんなが同じような知識や教養を持ち、理性的に話し合えば理想的な統治形態に達するだろうと考えていた。だけど、我々は数百年にわたって民主主義の実験を続けてきたが、そうはいかなかった」
 国民の頭を良くしないといけないと考えているのは民主主義政体だけだそうです。理性的な国家という理想を実現させるためには国民一人一人の知識、教養を高める必要があるためです。ところが知識や教養を持てば持つほど様々な矛盾や問題が見えてきます。そうすると簡単にはまとまらない。「福祉が大事」「いや経済あっての福祉」「格差社会が問題」「いや、能力に応じた対価が得られない社会の方が問題」みたいに「それぞれが正しい」考えで独裁制なら、独裁者の意志が国家の意志ですから超簡単。物事は効率的に進みます。なので民主主義以外の政体では……、
「統治する人間だけが頭が良くって、多の国民はバカな方がいいんです。なるべく国民を抑圧してバカにする方へ持っていく」
 ということなのです。
 民主主義は理想的ですが非効率です。なかなか物事が決着しない。それは表現規制問題についても同じです。筆者はもう10年以上、この問題に関わってきましたが、勝ち負けとかないんだよね。白田先生に言わせると、
「人類の歴史は人々を一つの考え方にまとめようとする力と、これに抵抗しようとする力の闘争の歴史。たぶん、ずっと緊張し、闘争していくことが『均衡』なのだろう。二つの波のように押したり引いたりする中での均衡が生まれる」
 ということなんですね。
 これはもう実感としてわかる。均衡のラインが揺れ動くけど、徹底的には動かません。どちらも「自分たちが正義だ」と考えています。規制を推進したい側は統治者が背後にいる分優勢だとは言えます。ただし、どちらも決定的には勝てないのが民主主義。土俵際まで押し込んでも押し出せない。押し出した瞬間、反対意見の抹殺ですから、それはもはや民主主義ではなくなってしまうんですね。

■明治維新後の西欧化
 講演はさらに進み、性表現規制という本論に入って行きます。
 まず、暴力表現が「犯罪またはそれに関連する行為」の表現であるのに、それより先に「それ自体は犯罪行為ではない」性表現が規制されるのか?
 よくある話ですが、性表現が性犯罪を誘発するのなら、ミステリーは殺人を誘発するという理屈になります。前半の講演に登壇した高山先生に言わせれば
「ルパン3世のアニメが窃盗を誘発するのか」
 ということになります。
 メディア効果論における強力効果説。これはほぼ否定されているっぽいんですが「アウトレイジ見たらヤクザになる」みたいな素朴な理屈。一万歩譲って、この説が正しいとしても(この仮定をすっ飛ばさないようにお願いします)、白田先生のスライドのメモによりますと、
「仮に性表現によって性行動が促されるとしても、それ自体は悪ではない」
 ということです。「セックスしたい!」と盛り上がってパートーナーとセックスしたとして、どこに問題が? 
 にもかかわらず性表現の方が暴力表現より問題視されるのは何故でしょうか?
 何故、性表現が差別されると同時に特権化されるのか? エロ漫画がなぜ「守るべき表現ではない」みたいな言われ方をするのか? 私たちの多くが漠然と「性は隠蔽すべきものであって、あからさまな性表現は良くないんじゃないか」と感じてしまうのはなぜか? 
 これは筆者にとっても積年の疑問で、色々考えてみたのですが、文化の成り立ちまで遡らないと答えは出ない。
 白田先生の講演でも、当然そこに迫っていきます。
 それについて解説し始めると結構なボリュームになってしまうので、乱暴にダイジェストしちゃうと、明治維新が大きな転換点でした。脱亜入欧ってヤツですね。とにかく欧米に倣って「一流の近代国家」にならなきゃ国が滅びる。社会制度、文化、常識の多くが欧米基準になる。で、その根底にあるのがキリスト教的な世界観です。法律もそうだし、学校制度もそうです。つまり、我々が自明のものと漠然と受け入れているアレコレ、さらに自分の内心のアレコレも実はキリスト教的なアレコレの影響を受けちゃってるわけです。これは良いとか悪いとかではなく、そうなっちゃってるワケです。
 このような文化史的な背景があって、現在に至るんですね。
th_2013-11-23 15.00.35s■表現規制の最後の論拠とは?
 次に児童ポルノ問題に話は進みます。
 白田先生がまず言及するのはアメリカで1970年に発表された「猥褻とポルノに関する大統領諮問委員会報告書」です。この報告によって、成人に対する性表現規制の根拠が失われます。
 これ、調べてみると面白いんだよね。元々は「ポルノの蔓延をなんとかせんといかん!」という動機で委員会を設置し、2年間、予算200万ドルかけて調査研究させてみたら、性教育の必要性と並んで、成人にとってポルノは無害であるという諮問が上がってきたわけで、ニクソン大統領がブチ切れたのも当然です(このへんは、くるぶしさんの「読書猿Classic: between / beyond readers」2011.01.08のエントリー「ポルノ解禁を勧告する諮問委員会の答申を大統領は激怒してはねつけた」に詳しい)
 ただ、これはポルノ全般の話だし、あくまでも「自由に読む/見る/観る」権利があるのは成人限定。未成年者の権利は制限されるべきということです。また、筆者の記憶では70年当時はまだ児童ポルノ問題は顕在化していませんでした。
 諮問後のアメリカにおけるポルノ問題の展開は、白田先生の「性表現の文化史」に詳しいので、ここではぶっ飛ばします。
 で、現状では、
1)成人がポルノを楽しむのは自由
2)ポルノを見たくない人に無理矢理見せちゃダメ
3)ポルノを未成年者に見せちゃダメ
 というあたりで(アメリカでは)合意が形成されています。もちろん、力関係によって揺れはありますが、大体、そんな感じ。
 3)は、日本で言えば各都道府県の青少年条例ですね。で、現在のポルノ論議の焦点は「未成年者」をどう扱うかというところにきている。
 これを白田先生は、みんなが合意するだろう表現規制の
「最後の論拠にして最後の砦」
 という表現で指摘します。つまり、
「未成年者にポルノを見せない=青少年条例による規制」
「未成年者をポルノに出演させない=児童ポルノ禁止法による規制」
 くらいはアリだろうという考える人が多いだろうし、筆者も条件付きで容認できる点です。未成年者の権利はどうよ? という点ではまだまだ論議が必要でしょうが、どこがで線引きが必要です。しかし、それはあくまでも児童性虐待被害者が実在する実写に関してであって、マンガ・アニメは違うでしょという話。
 白田先生のスライドから引用すると、
「仮に青少年保護に正当性があるとして、青少年が素材として用いられており、暴力表現の一種である児童ポルノと『絵』の関係は?」
 という疑問に突き当たります。

 以上が白田先生講演の超ダイジェストというか、永山個人がどう受け取ったかというまとめですが、自分がなんとなくひっかかりつつも自明のものとしてきた観念を検証するという意味で刺激的でした。
 かなり乱暴なまとめなので、興味がある人は是非『性表現規制の文化史』を読んでください。

質疑応答タイム。和服が並ぶと、写真がお正月ぽくなるね。

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